青の一族

第8章 6世紀:豪族たちの抗争


1 継体天皇とその同盟者


1-1 継体天皇に至る系図1-2 汗斯王に至る系譜1-3 羽咋君1-4 三尾君1-5 継体天皇の妃たちと尾張氏


 武烈天皇の後に皇位を継いだのは品陀和気(応神天皇)の5世の孫とされる継体天皇だ。
血筋だけなら3世や4世の孫はたくさんいただろうになぜ5世の人が候補になるのか。私は天皇と言われた人物は力のある首長でなければならなかっただろうと考えている。力があるとはまず財力があること、そして地縁血縁によって支えられているかどうかだ。前章で、当時の最高の権力を握っていたと推測される大連、大伴金村は継体擁立派だった。この点でも継体は幸運だっただろう。

1―1 継体天皇に至る系図

 しかし、武烈亡き後血筋は絶えたとされる。そこで継体が登場する理由は何か。継体の後ろ盾となった氏族はどれか。
『記』には品太王(ほむだのおおきみ)の5世の孫としか書かれない。『紀』には彦主人王(ひこうしのおおきみ)の子で、母は垂仁天皇の7世の孫の振媛だと記す。
『上宮記』には応神から継体に至る系譜が記されている。
系図

 振媛の系図は次の通り。
系図
1―2 汗斯王(うしのみこ)に至る系譜

 継体天皇の父方の祖の咋俣長日子は、『紀』では河派仲彦(かわまたなかつひこ)とされる。『記』の方は息長氏によって後に加筆されたように思うが、咋俣長日子の父は息長田別王でその父は倭建だ(倭建から咋俣長日子に至る系譜は7章4―1参照)。近江の米原市の北を流れる天野川を古くは息長川といったということで、この流域が息長氏の本拠地らしい。『記』ではこの近江系の咋俣長日子の娘と応神の子が若沼毛二俣王だ。『上宮記』では、応神である品陀和気ではなく凡牟都和希(ほむつわけ)が若沼毛二俣王の父となっている。私はこの凡牟都和希が敦賀の神、伊奢沙和気と名を交換するいわゆる品陀和気だったのではないかと思う。垂仁天皇と沙穂姫の子に誉津別(ほむつわけ)がいた。時代が合わないので同一人物とは思えないが、同じ名だから彼は佐保川流域が本拠地だったのではないか。
 そして、若沼毛二俣王と息長真若中比売の妹の子が意富富杼王(おほほどのみこ)だ。
 意富富杼王は『記』に三国君(みくにのきみ)・波多君(はたのきみ)・息長坂君(おきながのさかのきみ)・酒人君(さけひとのきみ)・筑紫米多君・山道君・布勢君の祖とある。三国は福井県坂井市だが詳細は次項で述べる。波多君は滋賀県東近江市八日市町に羽田の地があってここが本貫だという。息長坂君と酒人君は滋賀県の旧坂田郡に本貫がある。
 允恭天皇の皇后で雄略天皇の母の忍坂大中姫は意富富杼の妹だ。
 意富富杼の子、乎非王は、岐阜県の武儀(むぎ)川流域の豪族と見られる伊自牟良の娘、久留比売と結婚する。
 ここまで見た首長たちの連合は、琵琶湖の東岸一帯と不破の関から先の東山道の北側をカバーする(一部は除く)。

1―3 羽咋君(はくいのきみ)

 継体天皇の母は振媛だ。彼女の父方の系譜は磐衝別(いわつくわけ)から始まる。彼は垂仁天皇と山城の綺(かにはた)戸辺(とべ)の子とされ、『記』によれば羽咋君と三尾君の祖だ。石川県羽咋市にある羽咋神社は磐衝別を祭り、滋賀県高島市の水尾神社も同様だ。福井県足羽郡の分神社は伊波知和希(いはちわけ)を祭る。坂井市の高向神社の祭神は応神と振媛だが、乎波(おは)智君(ちのきみ)だという説もある。
『先代旧事本紀』は、この地には江沼・加賀・羽咋・能登の四郡ありとする【図41】。
図41 継体天皇の地盤地図 (『福井県の歴史』から)
継体天皇の地盤地図
 現在、能登半島の西側の金沢市の北からかほく市・羽咋市・志賀町までが羽咋郡と羽咋市に入る。羽咋市にある気多神社は大貴己命を祭る。社伝によれば、孝元朝に大国主が三百余神を率いて来航し海路を開いた。この地方には大国主の治水工事の伝承が残っている。また継体天皇の伝承も治水に結びついているという。
 坂井市三国町の下屋敷遺跡から銅鐸の鋳型が出ている。古式の銅鐸が三国町の米ヶ脇(こめがわき)遺跡・春江町の井ノ向(いのむかい)遺跡から出ていて、福井県北部が銅鐸文化圏だったことを示す。すなわち出雲とのつながりが想定される。2世紀頃福井市に小羽山四隅突出墳群ができ、その少し後に永平寺町に北陸最大の四隅突出墳の南春日山1号ができる。弥生時代後期後半の加賀の月影式土器は出雲の土器に似ていて、富山市の婦中町では月影式土器と四隅の築造時期が重なる。2世紀以降、能登半島西岸地域は出雲だけでなく東海との交流も活発になったようだ。白山市の一塚遺跡には四隅突出墳があるが葬祭用土器は東海の影響が強いという。この遺跡には前方後方墳型墳墓や方形周溝墓もある。
 羽咋地域には出雲の影響が濃く残っていて、古墳時代の前までは鯖江市から七尾湾に至る広範囲な地域に出雲人が進出していたと思える。しかし、古墳時代になると南から近畿勢の影響が強くなってくるようだ。

1―4 三尾君(みおのきみ)
『紀』に、振媛は彦主人王(ひこうしのみこ)が死んだので幼い継体を連れて母のいる坂中井に帰ったとあり、これが福井県坂井市だという。
 三尾は滋賀県の高島市だと言われている。しかし、三尾は坂井市の三国ではないかという説がある。振媛の母の阿那余媛は三国命(みくにのみこと)ともされる。『紀』に「三尾氏出身の倭媛(やまとひめ)の子の椀子皇子(まろこのみこ)は三国公の祖」とあって、この三国とは江沼・坂井・足羽だという。これは現在の加賀市・あわら市・福井市・大野市西部を含む広い地域だ。
 4世紀に能美市に秋常山(あきつねやま)古墳(140㍍)ができて、これが加賀国の基盤となったらしい。土器は布留式になる。同じ頃に加賀市の江沼盆地に吸坂(すいさか)A3号墳(61㍍前方後方墳)・D13号墳(60㍍前方後円墳)、金沢市に長坂二子塚古墳(50㍍前方後円墳)ができる。
 5世紀頃からあわら市と坂井市の境界に横山古墳群が営まれる。前方後円墳15基・方墳59基・円墳160基を含む北陸最大の古墳群だ。これは三尾氏の墓所とも三国国造の墓所とも言われ、その中の椀貸山古墳(45㍍6世紀初頭)は椀子王の墓という伝承があるという。近くに横山神社があって継体天皇を祭っている。この周辺が高向郷で、継体の育った場所だという。
 阿那余媛は余奴臣(えぬのおみ)の祖とされる。余奴臣は江沼郡の豪族だと見られる。現在の小松市から加賀市にかけて木場潟・柴山潟・今江潟(干拓により消滅)があるが、この周辺が江沼氏の当初の本拠地だった。次第に拡大し山城温泉から能美市まで勢力を広げ、加賀郡と江沼郡はこの時代はほぼ江沼氏が支配したようだ。
 金沢市の大野湊神社は727年に佐那という人が猿田彦の神を勧請して始まったとされる。神社は海辺の大野庄にあって湊の守護神と言われ、この大野湊が海洋族、道氏の本拠地だった。道氏は大彦の末裔で日本海で広く活動したという。
 能登氏は七尾湾鹿嶋津を基盤とした一族で、『記』では崇神の子の大入杵(おおいりき)が祖、『先代旧事本紀』では垂仁の子の大入来が祖で、成務朝でその孫が国造になったとされる。
 ここまで見て来たように、振媛の後ろ盾となる氏族は石川県と福井県の日本海に面した西側のほぼすべてをカバーするのがわかる。父方と母方を合わせると能登・加賀・越前・近江・美濃の氏族が継体サイドということになる。しかも遠いとは言え継体は允恭・雄略の血筋だ。上に並べた氏族も彼の曽祖父、意富富杼の力があってこその同盟と思える。

1―5 継体天皇の妃たちと尾張氏

 歴史での継体天皇の妃もほぼ上の同盟の通りのメンバーになっている。
『記』では、手白髪命(たしらかのみこと)(仁賢天皇の娘)、三尾君らの祖の若比売、坂田大俣王(さかたのおおまたのみこ)の娘の黒比売、息長真手王(おきながのまてのみこ)の娘の麻組郎女(おくみのいらつめ)、三尾君加多夫(みおのきみかたぶ)の妹の倭比売、尾張連らの祖の凡連(おおしのむらじ)の妹、目子郎女(めのこのいらつめ)、安倍波延比売(あべのはえひめ)。
『紀』の記述はそれぞれの名前が微妙に違い、新メンバーも入る。坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘が広媛に、目子媛(めのこひめ)の父が尾張連草香(おわりのむらじくさか)に、安倍が和珥臣河内(わにのおみこうち)に変わっており、新しく茨田連小望(まんたのむらじおもち)の娘の関媛、根王(ねのおおきみ)の娘の広媛が入る。
 坂田郡は滋賀県長浜市や伊吹山のあるあたりだ。茨田氏は大阪府の守口市・門真市が本拠地。根王は良くわからない人だが、娘の産んだ子が酒人公と坂田公の祖というから近江系か。
『記』の情報では、継体は尾張と結んで太平洋への道を確保し、『紀』の情報では淀川河口付近も掌握したことを伝えているように見える。
 尾張氏は清須市・稲沢市・一宮市周辺に住居した物作り集団だが、継体天皇の外戚になった頃には伊勢湾近くに土地を持ったようだ。倭建の妻である簀媛(みやずひめ)の墓とも、継体の妻の目子媛(めのこひめ)の墓とも言われる断夫山古墳(151㍍)は名古屋市の熱田区にあるが、海のすぐ近くだ。今でも名古屋は水路が多く治水に苦労するところだ。弥生時代にはたぶん船で大垣まで行けたし、大阪は現在いちばん繁華な市街地はまだほとんど海の中という時代、名古屋市の熱田区あたりもこの頃やっと陸地になったばかりの場所だったのではないだろうか。当時の最新技術で治水と干拓工事を行って大阪の海辺を住める土地にした仁徳天皇と同じで、尾張の物部氏も耕地面積を増やすための工事をして自分たちの土地を手に入れたのではないか。5世紀は物部氏が伸長した時代だった。尾張の物部氏も力を蓄え、自分たちの土地を持ち、昔ながらの豪族たちの仲間入りをしたのだと思う。その象徴が古墳だ。6世紀初頭に白鳥古墳(74㍍)、前半に大須二子山古墳(100㍍)・断夫山古墳が続けて作られる。この時期愛知県の他地域に古墳はできない。
 大須二子山古墳から出土の画文帯神獣鏡の同笵鏡が加賀市の狐山古墳から出ている。この古墳は5世紀後半の築造で西向き、箱式石棺と大量の副葬品が出たという。これより先に熱田神宮の東の瑞穂区におつくり山古墳があるが、ここから出土の胡籙は石川県珠洲市の永弾寺山(ようぜんじやま)古墳と同形で、韓国福泉洞古墳の変形品だ。この二古墳は5世紀後半の築造で20メートル程度の円墳だ。九州勢の影響や北陸との関連が見て取れる。
 断夫山古墳からは多数の埴輪が出た。そして断夫山古墳が作られた後、尾張型埴輪・須恵器が出現し、それらは継体の勢力範囲内に分布するという。